3.11のあの日①

ずっと忘れないように記録しておきたいと思っていたのですが
書く気になれず、6年
過ぎた期間はポンの年齢と同じなので、これだけは忘れることはないでしょう。

極端かもしれませんが、私は朝、子どもや夫に掛ける「いってらっしゃい。」が
最後になるかもしれないんだよな、
そんなことを思いながら、日々みんなが元気で過ごせていることに感謝しています。

とのコメントをいただき、いつの間にか大切なことを忘れていたことに気が付きました。

3月9日
育休で仕事を休んでいた私は、ポンと同級生の子を持つ友達と
我が家でお昼ご飯を食べる約束をしていました。
その子たちが到着する11時頃に大きい地震があり、最近地震が多いねと
話していたのですが、数日後にさらに大きな地震が来るとは思ってもみませんでした。

3月11日
夕飯用にと土鍋で鍋を作り、生後3か月のポンとお昼寝をしようと
横になていたとき時刻は14時46分。あの地震が起きたのです。
強い揺れを感じ、とにかく家の外に出なきゃと赤子のポンを抱えて
手すりにつ かまりながら外へ這い出ました。
電信柱は大きく揺れ、地鳴りとともにみしみしときしむ嫌な音が響きます。
近所の方々も外へ出て、しだいに黒く染まっていく空を見上げ
なすすべもないままただ地震がおさまるのを待ちました。

祖母が近くに住んでいたので、大パニックにはならなかったのですが
何度も続く揺れの中、祖母のラジオからは状況を把握できていない
パーソナリティの声だけが響きます。
家の中は安全ではないため、ベビーカーにポンを乗せ、たくさん
毛布をかけ寒さをしのいでいたのですが、黒い雲からは雪が舞い落ち
もうすべてが終わりなのかなと感じていました。

だんだん次の揺れまでの間隔が長くなってきたので
ポンを祖母にたくし、部屋へ戻ると硝子のコップは割れ
引出が飛び出し、キッチンはいつかのTVで見た地震後の映像に似ていました。

でも、普段過ごしている部屋は、高いものも特になかったので
ここで寝れそうです。
電気はつきそうもないので、明るいうちに動線を確保するため
できる範囲で片付けましたが、冬の日が陰るのは早い
あっと言う間に当たりは薄暗くなりました。

我に返ると、我が家の暖房器具はすべて電気がないと
動かないものばかり。
反射式ストーブは必需品だと思います。

幸い、祖母の家に反射 式ストーブがあったため
アパートの住人が集まって暖をとり、私が作っておいた鍋を食べようとしたとき
玄関のチャイムが鳴りました。
警察が来たのです。

警察の方が言うには、近くでガス漏れをしているため
1Kmほど離れた小学校の避難所に行った方がいいと言うことでした。
確かに外へ出るとガス臭い
ベビーカーを持っていくか迷ったのですがポンは抱っこひもで抱き
すぐ戻れると思っていたので簡単な荷物を背負い
祖母の懐中電灯で足元を照らしながら小学校までの道を歩きました。

あたりは真っ暗闇。
懐中電灯の光だけが頼りでしたが、凍っているところや
地震の影響でしょうか?道のでこぼこに何度も足をとられました。

体育館にはすでに大勢の方が避難して おり
近くの保育園児もいました。
ただ、暖房器具がないためものすごく寒い
配られた薄い毛布1枚ではとても夜を越せる気がしません。
この大勢の中で母乳をあげたりおしめを換えたりできるのか。
おしめ・・・
すぐ帰れると思っていたのでおしめまで気が回っておらず手持ちは数枚でした。

おしめに関しては今でもなくなると不安に襲われるので、ストックが大量にあります。
大袋3個あっても不安なのはこの時の気持ちを引きずっているのでしょうか。

安否確認ダイヤルは役に立ちません
知りたいのは安否はもちろんのこと、今どこにいてどういう状況なのか
どうすれば出会えるのかが知りたいのです!
携帯は本当に心の支えでした。
でも充電しておけばよかった~とい う悔やみがありました。

悔やみと言えばガソリンです。
あの日は金曜日だったため、多くの人が帰りに給油しようと
考えており、旦那もその1人でした。

ガソリンスタンドには長蛇の列
旦那は10ℓのガソリンを入れるために約9時間並びました。
ガソリンを入れるためにはガソリンスタンドの方が手動で
ポンプをくみ上げる方法しかなく、それができるガソリンスタンドも
限られていることを今回知りました。

私たちは叔父と叔母に連絡がとれ
ガソリンが少ないなか、小学校に迎えに来てくれた車に乗り
実家へ避難しました。
実家は高台にあるため津波の心配はないのですが
あの時“津波”という言葉自体、頭のどこにもありませんでした。

自動で水が流れる1階のト イレは、電気が使えない今
何の役にも立ちません。
20年以上前からある2階の普通のトイレを使用し、使用後にお風呂の水を
勢よく流しいれて排泄物を流します。(これ結構難しいです

ラジオからは耳を疑う、聞きなれた浜に100~200の遺体があるという声
意味が理解できませんでした。とても現実とは思えませんでした。
テレビが見られないゆえ、直視できなかったことは良かったと思います。

そして日が昇り、届けられた新聞で初めて何が起こっているのか
知ることができたのです。

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