3.11のあの日②

たった数枚の新聞でしたが、その一面の写真に衝撃を受けました。
・・・衝撃を受けたはずなのですが、意味を理解できずにいました。

どうやら大地震で津波が起こったよう。
でもそのことと、聞きなれた浜に100~200の遺体、新聞の写真が
私の中でつながらなかったのです。

いま思うと、震災の次の日に新聞が届いたことは
新聞を作成し届けてくれた新聞屋さんたちの思いがたくさん
こもっていたということです。
その思いはは多くの方の心に届いたと思います。

のちにドラマ化されたようです。
(私は震災関係の映像はまだ見たくありません)

実家では母が皿にラップを敷き(洗う水が出ないため)
反射式ストーブで作ったごはんを食べ、居間にたくさんの布団を敷き・・・と
体育館とはくらべものにならない快適な生活が出来ました。

私はとにかく母乳を切らさないようにと心の平穏とポンのお世話だけに専念。

この辺から記憶があいまいなのですが
お湯を作るのも大変なので、髪の毛は水で洗いました。
真冬の水シャン、汚れが取れたかは不明ですが久しぶりの
シャンプーに少しすっきりしたことを覚えています。

集会所に給水車が来ていることを知り、外の空気を吸いがてら
くみに行ったら、母が少ないガソリンの車で血相を変えて迎えに来ました。
水が重いからわざわざ来てくれたのかな~と
軽い気持ちでいたのですが、電気がつきTVが見れた我が家には
原発がヤバいという情報。

メルトダウンは24という海外ドラマを見ていたので知っていました。
でもそれはおとぎ話の中の、なったらヤバい・・・程度。
でもそれが現実に自分の身の回りで起きていたのです。

さきほど味わった外の空気は、一瞬にして
汚れたものに感じました。
ポンを被ばくさせるわけにはいかない。
なるべく遠くに行かないと。。。
確かな情報がなさすぎて、色々考えることができませんでした。

旦那は仕事に行っていたのですが、帰って きてすぐに
高速で2時間ほど北にある旦那 の実家に行きたいと伝えました。
その私の勢いに圧倒されたんだと思います。
そうそうに準備し、夜9、10時頃でしょうか。
ガソリンも心配ですが実家を出発しました。

高速は閉鎖されているため、ひたすら市道を北上
途中、信号機がついているほうがめずらしい道を
眠気を必死にこらえ運転しました。
明かりはヘッドライトだけ。
途中何度もバウンドしました。
道が地震で歪みうねっていたのです。

朝方5時頃、なんとか事故らずに旦那の実家に到着しました。
早朝に突然来た私たちを暖かく迎え入れてくれた
旦那のご両親には感謝しきれません。
涙もとまりませんでした。
(その感謝も今はうすらいでいました。)

それから約1ヵ月、私とポンは旦那の実家にお世 話になりました。
このときやっとお風呂に入れたと記憶しています。

電気や水が復旧しても灯油やガソリンが手に入らなかったため
寒さが一番つらかったのですが
我が家とは県が違うため、流れるニュースはあまり耳にしない
地名が多く、母校や中総体でともに戦った中学校の名前
よく行く施設の名前を遺体安置所として目にしなくなったことには救われました。

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